昭和四十六年十二月二十三日 朝の御理解
X新御理解、及び 御理解 第六十八節
明治四十三年七月二十六日尾道教会所にて、本人より直接聴取、石田友助とあります氏子から神へ暇を出すが、神から氏子へ暇は出さぬぞ。婦人には、出産しようとも、よかりものによからいでも、腹帯をせいでも、神様一心に縋っとりゃ、安産が出来るから誠に楽ぞよ。もう一回読みます。婦人には、出産しようとも、よかりものによからいでも、腹帯をせいでも、神様一心に縋っとりゃ、安産が出来るから、誠に楽ぞよと。その前のところは、氏子から神へ暇を出すが、神から氏子へは暇を出さぬぞ。と 又今度、次です、物は時節に任せよ、あせっては損じる。神の道を話す。物、物事の物ですね。物は時節に任せよ。あせっては損じる、神の道を話すと。
 金光大神も生き通しにはならんけい、ならぬけいとあります。ならぬからという意味でしょう。尋ねる事があれば、何なりと尋ねておかんせいよと。金光大神も生き通しにはならんけい、尋ねる事があれば、何なりと尋ねておかんせいよと。
 ここを頂かせて貰いましてね、今日はこれを先に頂きました。そして、教典なら教典のどこからここんところを頂くかと思わせて頂きましたら、御理解六十八節のはじめのところ御理解六十八節の「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。六十八節の前段のところですね。はじめのところ。                          神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳をうける修行じゃというようなところから、頂いていきたいと。
 昨夜、・・・昨夜というよりも、今朝方、もう一時過ぎ位ありましたでしょうか、文男先生が私の部屋にやってきてから、確かに今日は田主丸の共励会だから、文男さんが来とるから、必ず足揉みに来てくれると、私も寝むらずに待っとった。そしたら他の方につかまってから、まあ信心話をしょったから遅うなったというて、もう一時過ぎでしたでしょうか。私の足を揉んでくれるから、まあいろいろ信心話をさせて頂くわけでございますが、その中に、親先生00さんの場合なんかどんなもんでしょうと、あれだけ一家をあげて熱心に信心しよんなさるとい、どうしてああゆうふうにいつまでも、難儀が続くのでしょうかと。経済の上にも、体の上にまあ合点がいかんのですと。どういうものでしょうかねというて、そうなあと、私も寝ながらそう言いよりました。そしたら御心眼に頂きますのがね、大きな風呂に、まあ水がそうですね、三分の一位お水が入っているところ。いわゆるその水が、もちっと、例えば、半分位に入れたら、けど風呂はですね、十人位一緒に入れる位の風呂です。それに水が三分がと位入っておる。も少し、お水が入ったらというところなのです。
 だからお水がも少し入らなければならん。そして又今度は、それを炊かなければならん。でないと、いうならば、お風呂が湧かんのであり、中に入ってああ、極楽だなと、ああ極楽というようなおかげにはならんとこういう。
 まあ私は、風呂が大きいという事は、やはりおかげが大きいという事だと思うのですよね。例えて言うとですよ、一反のおかげでよけりゃ一反、それを例えば、十俵のお米が取れるとしますれば、十俵だけのおかげ、けどもやはり五十俵のおかげ頂きたいとなら、やはり五反の田を作らなければならないようなものなのです、ね。
 一反二反三反四反と増えて行く為には、それだけの修行が、人が三年かかるところはやっぱり十年なとかかるわけです。私がお風呂場のお知らせ頂きましたのもです、文男先生がその為に頂いた事に対してです、大きな風呂に水が三分がとこ入っておるまだ勿論水である。だからもちっと水を入れなければならん。だけではないそしてそれからこれを炊かなければならん。薪でも、石炭でも炊かなきゃならん。
 薪という事は真心と頂かにゃならんだろう。真の気、まき、石炭という事は真っ黒しとりますから修行という事であろう。それを信心の熱情を持って燃やしに燃やさして頂いて、はじめてお風呂が沸きます。そして大きい風呂であるならば十人なら十人の人が、ああ極楽といえるおかげになるのである。文男先生がお伺いしたのは、それ程合楽でも珍しい信心しんさるとに、経済の上からでも、健康の上にでも、どうした事でしょうかと、脇から考えてそれを思うわけであります。そこで今日の御理解です 氏子から神へ暇を出すが、神から氏子へ暇は出さぬぞというところ。例えばだんだん、信心さして頂いとっても、まあろくな事はなかと、困った事ばっかり続くと、そこでとてもそげな事なら、私どんは信心は続けはきらんと信心を止めるのは、氏子から神へ暇を出すようなもの。神から氏子へ暇は出さぬぞ。どんな事があっても、神様から氏子へ暇を出しなさる事はないという確信をまず持たなければなりません。
 これはまだ、信心が足りぬのだと一段とそこから信心を続けて行かねばいけません 神様から手を離しなさる事は絶対ない。いわゆる縋って縋って縋りぬかねばいけないと。そこで六十八節です。
 「神参りするに雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。その、それこそ雨が風がと思われるような中をです、切ない切ないと、苦しいという事でしょうけれども、その辛抱こそが身に徳を受ける修行になるのですからね。有難いでしょう。ですからその辛抱が出来なかったり、中途半端になったんではです、それは徳にはなりません。徳を頂いていくひつの過程であり、段階である。
 神様が下さろうとしておるおかげ、いわゆる御恵みの水がというて、お風呂で例えますとです、まだ水風呂には入られん。まだおかげになっていないという事。まだ々これから薪も炊かにゃならん。石炭も炊かにゃならん。そしてはじめてお風呂に入って極楽というような、成程信心しよんなさったから、健康の上にも経済の上にも、人間関係の上にも本当にあちらの家こそ、極楽じゃやうと思われるようなおかげになってくるのです。
 さあそこで、次のところです。
 婦人には、出産しようとも、よかりものよからいでも、腹帯をせいでも、神様一心に縋っとりゃ、安産が出来るから、誠に楽ぞよとおっしゃる。
 ここんところは勿論出産の事、赤ちゃんが産まれるという事でしょうけれども、信心の今日の御理解から頂きますとです、本当によいものが生まれる。本当によいものがうまれる。これには出産の道理と同じで、やはり産みの苦しみというのもは絶対に伴うもの。十月十日という、いわば永い間、その間にはつわりもあろう、身も重うなろうというように、決してこれは楽な事ではないけれども、皆が例えば挨拶をかわすでも、あなたはお腹が大きゅうなりなさって困りなさるでしょうとは誰もいわんでしょうが。おかげ頂きなさった、もう本当にきつうあんなさろうけれども、おめでたい事じゃとしかいわんでしょう。ですから、私共が信心して難儀しておるのは、よいものが生まれてくるのですから、おめでたいのです。困った事ですねと挨拶をかわす事こそ神様に対して御無礼なんです。
 あの人達はいつになったらおかげを頂かっしゃるじゃろうかてんなんてん、そこんところが、ひどければひどい程、強けれは強い程、長ければ長い程、一反より二反、二反より三反のおかげのバックというものが広がって行きよるところなのです。という事になりましょうがね。それにはよかりものによからいでも、腹帯をせいでもとこうおっしゃっとられます。よかりものというのは、出産の時に、こう寄り掛かるものですね。何かにこうやって、それこそ割れ竹でも握るりじゃくような力を入れるものが要るわけです、ね。出産の時には、いわゆる、よか頼るものが要るという事です。 けれども信心でね、よかりもの、人に頼るなという事です、物に頼るなという事です。腹帯をせいでもという事です、どんなに苦労であっても、難儀であっても、神様一心に縋っときゃ、楽ぞよとこうおっしゃるように、人間心を使うて、さあ苦しいといえば、あっちに走りこっちに走りして、救いを求めてまわるような事はするなよという事。                                   私は夜中に文男先生がお尋ねに寝ながら、お伺いという話でもないけれども、先生どうしたものでしょうかなあというて、いったその事がです、いわば今朝の御理解の芯になっとるのですけど、そしたら今日の新御理解ですよね。新御理解から、只今のところを頂いとるわけです。
 なら、それを教典の中から、これはまあ、今日のところの、ここが中心ではない、六十八節の、只、前段のところだけをです、神参りするのに、例えば信心するのに、雨が降るから風が吹くからという事は、勿論雨風の事ではありますまい。信心しておって、どうしてこんな難儀な事が出るだろうかと、出来るだろうかと、信心しとってもそれこそ歯を食いしぼって辛抱せんならんところがあるけれども、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行。いわゆる徳を受ける。神様が徳を与えたいばっかりに、そこに修行がある。だからめぐりが大きければ、めぐりが深ければ深い程、大きい程おかげも広い。しかも、深い意味に於いての、おかげを受けるだけではない。それだはの辛抱によって、徳を受ける事が出来る。そういう時です。よかりものによからいでもとおっしゃとられる。こういうところに、我々はすぐ、よかりものによかろうとするわけです。人に縋ったり、頼ったり、それでは真に楽ぞよというところにならんのです 次が又素晴らしい。ものは時節に任せよ。あせっては損じる。神の道を話すとおっしゃっとる。金光大神も生き通しにはならんけい、尋ねる事があれば何なりと尋ねておかんせいよとおっしゃっておられます。
 例えば、文男先生はその事を尋ねたわけです。これは私は金光大神という事は、大坪総一郎でもいつまでも生き通しに生きる事は出来んのだから、今なら私が居るからどんな難しい事でも私の知っておるだけの事は、教えてあげられる。わからんなら神様にお願いして、教えてあげる事が出来るから今の内に聞いておかんせいよという事になるのではないでしょうか。ですから聞いた事をですね、本当に教祖の時代に信者さんが聞いた事が残っておったから、これだけの事がこれからいえる。だから皆さんがどうでも残しておかねば駄目です。
 合楽の御理解はものは時節に任せよ、あせっては損じると、あせっては損じる神の道を話すと早うおかげ頂きたい、早うおかげ頂きたいとあせる事はね、損じる事になる。かえっておかげが、おかげにならない事になる。のっびりとしとけという意味じゃないです。信心させて頂きながら、それこそ今こそ身に徳を受ける修行させて貰うとるのだという気になって、信心させて貰うとかんならんという事なんです。
 とてもお徳を受けるといったような事がですね、只、二年どん三年どんお参りしておかげ頂いたと教えを守ったから、お徳が受けられたとは思われません。
 やはり今日の新御理解の中にあるようにです、どのような事があっても、氏子から神へ暇を出すような事があってはてならぬ。神から暇を出すような事はないとおっしゃるのだから、此処に縋って、縋って、縋りぬかせねばならんという事。しかも、そのお徳というのは、あの世にも持って行けこの世にも残しておけ、子孫にも残しておけれるという程しの事ですから、とてもとても、只、何年間一生懸命朝参りした位の事だという意味じゃないです。いよいよ大事にせねばならない事だと思います。
 おかげを急ぐ、おかげ急ぎをする。おかげ急ぎをすると必ず、そこに不自然な事になってくる。いわゆるかげるとこういう、あせっては損じるとこういう。こわれるという意味です。折角の丸いおかげが四角になったり三角になったりする。本気で神様が下さろうとするおかげをね、頂く姿勢をいよいよ作らねばならないという事。そこにです、例えば、昨日から頂いとります、昨日の御理解の最後のところがテ-プに入っとりませんでした。天地金乃神様を助ける、立教神伝からでしたからね今日。天地金乃神を助けてくれよと天地の親神様が教祖金光大に願っておられる。そこから金光大神が取次いで下さる事はです、天地金乃神様が助かる程しの信心を氏子に教導なさるわけです。そこに天地金乃神が助かられる、氏子が助かられる。いわば相よかけよというか、親にかかり子にかかりというか、神も助かり氏子も立行というか、そういうおかげが展開してくる。
 私は大きな信心という事はね、天地の神様が助かられるという程しのね、信心ほど大きな信心はないと思います。そういう信心を身につけさせて頂く。その過程に於いてです、私は今日の御理解がある。どんな場合であっても、こちらから暇を出すような事があってはならん。どんなに苦しかってもそれこそ、よりよいものが生まれる為の産みの苦しみであると思うて、それこそ有難い、それは苦しいことであろうけれども、やはりおめでたいという生き方をして行かなければいけないと思う。
 しかもそうだからというて、よかりものによかってはならんぞと人にども頼ってはならんぞ、物にども頼ってはならんぞと、まあ厳しく教えておられるわけであります ものは時節に任せよ、あせっては損じる。いよいよの時にあせってはならぬ。
 いわゆる、此処のところが成り行きを大切にさせて頂かじゃならんという事なのである。その時点時点をです、いよいよ信心によってそれを大事にさせて頂き、あせるどころではない、いよいよ、お道を神の道としておかげを頂いていく。神の道を立てねばならぬ。神様を助けていかねばならない。それにあせったりする事になりますと時節を待たない事になりますと、神の道を放すとおっしゃった。そこで私、昨夜寝ながらお知らせ頂くようにです、どうしてあの人達一家のようにです、経済なら経済の上にだけでも、神様が苦しめなさるじゃろうか、その上健康まで、そこになっていうなら、泣き面に蜂のようにしかも、どうしてあんなに長く続くでしょうかとこういうわけです。いわばその答えがです、今日の御理解を頂いてね、本当にはっきりしたように思いますね。私はそれを風呂のお知らせ。信心の最高の境地というなら、安楽又は安心。ああ極楽という事なのです。
 その極楽をお互い目指さして頂いておるのであるから、しかもその、めぐりが深ければ深い程それが大きければ大きい程、又おかげも大きいとおっしゃる。大きな十人も一緒に入れるというような、大きな風呂にまだ水が三分の一がとくらい入っておるというところであって、も少し水が入らなければならん。そしてその上いよいよ薪を燃やして行かねばならない。石炭をいよいよ使っていかねばならない。いや信心の熱情をかけて行かねばならないという事になる。
 お互い大繁盛のおかげは頂きたい。繁盛のおかげを頂きたいというて信心にならない。だからおかげを頂きたい、頂きたいでは絶対駄目である。極楽に行きたい、極楽に行きたいといったって、極楽に行く道を歩かなかったら、極楽に行かんのです。今日はそこんところの道を頂いたように思うです。
 昨日私が夕食の時に、昨日田中さんところの地鎮祭がありまして、若先生達がおかげ頂いた。それであちらで大変御世話になって帰ってきとるわけですけれども、送り膳がしてきてあった。ところがその送り膳が全然手が付けていませんから、私共にお客様が三、四人あっとりましたから、丁度六人でよいくらいな鉢もの。しかもここら辺で鉢盛りには珍しい鉢盛りなのです。ははあこれが噂に聞いておったこの合楽何とかストア-が出来ていましょう。あそこの魚屋さんの魚だろうなと私は思うたです。 成程、善導寺へんから、田主丸へんからでん、あそこの魚が新しかというて買いにきなさるという話を聞いてですね、ほう、合楽のこんな小さい町のこんな小さい市場に、こういう魚屋さんが出来たという事は、これは素晴らしい事だなあと思うて頂いてみてたまがった。鯛の活き作りがしてあった真ん中に、それに例えば貝とか、海老とかいわゆる生きものばっかりで、鉢ものが出来て、それはとっても本当に、こういう新鮮な魚をですね売るというなら仕入れも高いに違いない。しかもどこかの板前さんが作ったごと包丁も切れている。しかもそれがです、どこの魚屋とあまり変わらんという事あるならです、もう絶対繁盛しないはずはないですね。これは私はそれを頂きながら皆に話ました。おかげを頂きたい、おかげ頂きたいというて品物はしわがれた事ある品物ば売ってる、そして値段は高か、しかも努力はせんならそれで繁盛するはずは絶対ないです。いくら金光様ばかり拝んだっちゃ駄目です。いわゆる今日の御理解、そういう極楽へ行くなら極楽へ行く道がちゃんとあるです
 私もそのお魚を頂きながら思うた。ほりゃもう、お客さんどんがある時は、又鉢ものはあちこちよく頼みますからね、頼むなら近くの此処にたのむなら、こげな新しい魚がこんなに見事に出来るなら、これはここが一番よいと私が思うた。もうよ他所から絶対買わんでしょう。あれだけ勉強するならもう一ぺん買うとけばそこから絶対買う。そして五人なら五人の人に宣伝した。私が宣伝費を貰ったわけでも何でもないのに宣伝した。
 昨日日田の方達が、見えておりましてから、もうとにかく、まだ二、三回しか参ってこない人がです、姉さんがお参りしよるところなら私も連れて参って貰いたいというて、弟が言いよりますと、まだ近所の人も言いよりますと、いやそれは、あんた家だけでない、私達の周囲にも、日田からわざわざ参んなさる金光様はどげな神様じゃやうかと言うて、皆好奇心をもって見ておる。これはね、日田の方達だけでない。
 皆さんの周囲もそうですよ。合楽、合楽ちゅうて皆さんが参んなさるが、合楽ちゃどんなところじゃろうかと言うて、皆さんの周囲にはいっぱい、例えば、その人達に宣伝出来るくらいのおかげを頂かなければ駄目でしょうが。
 自分自身、おかげを頂く為には、本気で他所よりも新しい品物を、しかも安う、いわゆる教祖金光大神がね、目先は例え損のようであってもとおっしゃられる商売のコツ合いというものを御教えて教えておられるようにです、売り場、買い場を大事にせよとおっしゃるようにです、品物が悪うしとって、他所よりも高う売れるごとがおかげと思いよるなら、いつまでたっても、おかげにならんです。これは、だからそこんところを例えば、今日の御理解の中から頂いて、頂きたいと思うですね。
 今日はそれを新御理解の中から頂きました。そしてその六十八節のはじめのところ辛抱こそ身に徳を受けるというところを、その身に徳を受ける修行というその道すがらが、只、歯を食いしぼって辛抱しとけばよいという事ではなくて、信心にならなければならないという事。それが商売であるなら、新しい品を安う売らせて貰わねばいけないという事なのです。
 そしてどうぞ、今日も商売繁盛のおかげを頂かして貰いますようにと、それじゃ虫がよすぎるです。何事にも信心にならなければならないという事が今日の御理解を頂いて、いろいろわからせて頂きましたですね。
                 どうぞ。